昭和54年08月07日 朝の御理解。



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 昔、私共青年時代に「私の青空」という歌が流行りました。「狭いながらも楽しい我が家、愛の灯影のさす所」本当にね皆さんも覚えておられるでしょう。昔ね狭いながらも楽しい我が家、愛の灯影のさすところ、本当にね、一つ住みよい社会を創りたい。お道の信心を頂かせてもろうて、そういう一つの使命感を感じれるところまで、お互いの信心が進と尊いですね。私がおかげを頂きたいというだけでなくてね。
 住みよい世界。この世を苦の世苦の世界にせずに、本当にこの世は有り難い極楽の世界だ、いや合楽の世界だと。「合楽天国建設の願い」と言った様な事を、ある方が頂いた事がありましたよね。そういう建設的な信心を、前向きの信心と私は思うです。信心はどこまでも前向きじぁなからにぁいけません。それには、先ず自分の心の中に、自分の心のありどころこの心の持って行きどころのないという人がある。それこそ心次第で、五尺の体の置きどころのないとさえいうて、自殺行為に走る人がある。
 いよいよ住み難い。もう家に帰るのがいやだと言う様に、家庭の中に親と子が又は肉親同志がいがみ合ったり憎み合ったりする家庭には、確かに家には帰りたくないと言った様な事になるでしょう。愛の灯影がさしていないからです。だから自分の心の中にいうならば愛の心神愛の心、真の愛の心というものが育つという事。それにはいよいよ言うなら、自分の心を大事に壊さない様に傷つけな異様に、いやどういう事があっても傷つかんですむような、いわゆる心を創る事が先決だという事になります。
 自分の家庭だけではありません。自分の村だけではありません。それが本当に社会に広がっていく。それには先ず私がおかげを頂いてね、お道の信心によるとこういう心の中に安らぎを頂ける。有り難いものが頂けれる。家族中が拝み合うていけれる世界 それを自分の隣にも周辺にも広げていきたい。そういう愛の灯を一つ一つ、その愛の灯がともっていく事の御用に、私共が使命感を感じられるようになる時に、信心はいよいよ前向きであり、本当なものだという事になるのじぁないでしょうか。
 例えば家を建てるに致しましても、先ず住みよい家を建てたいですね。日当たりが悪いとか風が入らんとか、明るくないとか使い勝手が悪いじぁなくて、本当に住みよい使いよい、使い勝手のよい家を建てたい。それにどうでしょう。家相が善いの悪いのと、例えば言う様な事がもしあったとしたらね、ここに便所ば持ってくると本当に都合ええけれども、ここにかまどがあると使い勝手がいいけれども。
 家相を見てもろうたら、そこはいかん、ここはいかん、便所はここ井戸はここと、わざわざ使い勝手が悪くても、そうしなければ出来ないような、窮屈な世界というものがです。あっては住みよい、いうならば使い勝手の良い、住まいよい家を建てる事は出来ないてしょう。もうそれこそ、天地の親神様の心がだんだん分かって来て、お道の信心させて頂くようになりますと、もうそれこそね使い勝手のよいのがよい家相じゃと、教祖様はおっしゃっておられる。
 そういう世界をです、私共はこの家を建てるだけじぁないです。自分の心の世界にもそれがあるんです。昨日は私は、御祈念が終わってさがらせて頂いてから、いつもこうテレビをちょっと引っ張って見るんです。ちょうどあれは何でしょう、授産受賞かなんかでしょうか、非常にこう勉強した方らしくて、その方が運勢の判断をしておりました。相良なおみかなんかという歌手がおりますね、あの人をもう十年々々に、こういう事があったでしょう、これからもこういう事になってますよと。
 いう事を整然とした説明を加えていっておりましたが、貴方のいわれる通りでしたというて、大変感心しておりました。やはり一つの学問が学問になって出来ておるのですよ。易学でもそうです。易学というように一つの学問なんです。けれどもね、その人がいっておりました。けれどもどういう、いうならば今日はいけない日だという日でもです、その人が信仰心が篤くて親を大切にし、先祖を大事にする人は、こういう易学やら運命学といったようなものは当てはまらんち、いっとりましたよ。
 例えば、信心の篤い人が今日は悪日だから、どちらの方角には行ってはいけんと言う様な場合でも、その人が信仰心が篤ければね、又親孝行の心が篤ければです、先祖を大切にするという心があればです、そういう事は消えるという程しに、そういういうなら人間の作った学問というものは、一つの数学のようなもんですから、五と五を足せば十になると言った様な学問ですから、そういう心ばえ一つでは、そういう事はあてにならんといっております。又事実そうです。
 おかげはわが心にあり。心一つで総てを創れるのが私共の世界。それを信心がなかったり、大切にしなければならないものを大切にしなかったりするから、そうした窮屈な世界に住まわねばならんという事になるのです。そういう意味で私が何時も言う様に、合楽で説かれておる金光教というのは、宗教以前の宗教だと申しております。そういう学問で、そういうものを決める、世界のそういう時代の前のいうならば宗教だと。
 人間が人間らしゅう何の差し障りもない。いうなら広い天地を自分の心で、狭くするような生き方ではなくて、もう広々として頂けれる世界を、金光大神は説かれたんです。「日柄方位を忌まず、教の昔にかえれ」という御教がそれなんです。日柄とか方位とかいうて、いうなら世間を狭うする。それもたわいもない事。それをいうならば自分心次第で、よい方角になりよい家相になり、と言う様な天地の中には、そういう働きだけが主力になっておるのに、人間がいろいろというならば。
 まぁこざかしい学問によって、そういう事を作り上げてしまう。けれどもそれはやっぱりそれでおうたり、そのとおりになっていくという事実がある事も否めない。けれども金光様の信心は、そういう事をいうておったら、天地に対する御無礼になるんだ、お粗末になるんだと説かれてあります。人のいう事はしとかにぁといったような事は、もう天地に対する冒涜なんだ。
 昨日、研修の時にまぁお話しをた事なんですけれども、今度丸少が御本部参拝、丸少大会に参加しました。奉仕に青年教師の方達も沢山行きました。それで今年は大変一日が余ったようないつもの行事がございませんでしたそうですから、あのう4,5人で太郎先生のところに御参拝のおかげを頂いたという事でした。太郎先生というのは韓国の人です。御本部で長い事学院の飯炊きの様な事をしておられるうちに、金光様と仲ようなって、金光様からいろいろお指図を頂くようになり。
 もうとにかく金光様と平気で笑いながらお話の出来る程しの、心の持ち主というか心臓の持ち主です。私共は金光様の前に出たらものが出ないでしょう。それにその太郎先生という人は平気でもう、それもほんな炊事場で炊事をしてきたなりで、金光様と金光様も又大声あげて笑いながらお話しなさるです。この人とは。だから心臓が強いというのでしょうね。特別の心臓を持っちゃるとです。
 それも日本語と朝鮮語と半分づつのような言葉で話される。ところがそこで人がどんどん助かり出したんです。今の御本部よりお参りが多いちいうんじゃけん。毎日のお参りが。すぐ傍に今度立派なお広前が今度出来ました。御本部のちょっとばかり上に。そこにお参りさせて頂いて行ったら、そのうお結界がいつもはあちらは、右にあるのにその日だけは左にあったと。何かこう合楽との関りを感じましたと言っておりましたが。
 そこでんなら教えを頂くわけでもなからなければ、そのとおした事もないけれども、神様と交流する何かを持ってある。いわゆる金光様とこう相対でお話の出来るようなですね、何か心臓の持ち主なんです。そこが神様と交流するんでしょうね。だからそういう信心があるから、御本部の当たりでは目の色変えてやかましく、あぁいうのがあると金光教の妨げになると言った様な事をいうけれども、どんどん人が助かるから本部に参って来た人達が皆んなそこへ参って行く。そしておかげを受けるんです。
 だから助かりさえすればよいというてもです、いろいろなところがあるです。大変な御比礼のたっておる教会があります。そこの先生は指圧をしてやられる。病人がどんどん助かると。私共から考えるては道理にあわないような感じですけれども、助かる。その事を私お取り次ぎさして頂いておりましたら、『病気治しゃ災難除けの神』という意味の事を頂くですね。ただ人間のちょいと病気が治ったから、人間の幸になるという事じゃないけれども、ちょっと幸でしょうね。
 不健康な人が健康になるというのですから。けれどもそれが本当の救いじゃない。これは昨日の御理解をもう一ぺん思うて下さるといいですね。根本的な助かり。いうならば天地金乃神様が助かって下さる程しの助かりを頂いて,始めていわゆる金光大神が、神からも氏子からも双方からの恩人と言った様な御教でしたね。昨日の御理解はね。それは様々な吹きまじないとか、いろんな御祈祷して貰ったりしてですよ、助かると言う様な信心があると致しまても、そんなら合楽はどういう事で立っておるであろうか。
 合楽に対する神様の願いちゅうのは、どういうとこであろうかと、私はふっと思うたら、神様からサンズイへんに告げるという字を頂いたんです。告宮様の告という字。例えば、甘木の初代なんかの場合は、もう天地の大恩を甘木の初代程に、感得なされた方はいないだろう。もう終始天地の御恩徳を説かれたんです。そしたらいわゆる大徳を受けられ、あれだけの沢山な人が助かったんです。合楽の場合はね、どういう事を説くかというと、どこまでも天の心であり、地の心であるという事です。
 そして同時に日月の心という事にもなりましょう。合楽ではもうこれ一本槍です。だからお参りしてくるおかげを頂く。なる程それはいうならば神様の権威にかけてでも、そういう不思議な働きを見せて下さるのですけれども、そういう事が何時迄も続くという事ではない。もう2の口3の口には必ず天地の心を説かれる。いうならば法則が説かれ信心が説かれる。神の心をそのまま説かれる。だから合楽の場合はどうでも天の心地の心を自分の心の中に頂こうとする精進がなければ、合楽での真実の助かりはないです。
 合楽にかけられた神の願いはそれなんだから。しかも今釈迦もキリストも、説き得なかったという天の心であり、地の心であるというところに、いわば十全の教えという事がいえるです。次に放念という事合楽ほどその法則というものを、高度なものに高めていっておる所はないだろうと私自身思います。法則というものは自分の心が神に向かうというのがお道の信心ですけれども。神に向かえば向かう程、その法則は変わってくるんです。それは例えて言うならばね.
 十代の者が煙草飲んだり、お酒のんだりしたら人間の法にね、飲んだらいけないという事になる様にです、なら二十才になって三十才になって煙草を飲んじゃならない、酒を飲んじゃならんとは言わないでしょう。年を取っていくに従って法則が変わるように、法が変わるようにです、私共も心が高度になっていけば、行くほどに最近合楽ではあのう、コントロ-ルと言うなね、立て前とそして本音と。立て前のコントロ-ルと言った様な事が説かれます。
 又は総ての事柄に例えばこう言う事はもう、あのうお粗末であった御無礼であったと思うておった事にでも、私共の心からそれに御の字をつけるようになったら、それはもうおかげと頂けるんだと、言う様な法則が説かれるわけです合楽では。もっともっと私の頂いておる法則なんかというものは、本当にあのういうならば、滅法の世界とでもいいましょうかね、ぜんぜん法のない世界。自由無碍の世界が時おり説かれる事があり、私自身日々その法に従っての生活をさせて頂いておるという事になるんです。
 今日の御理解は、少し横道にそれたようですけれども、決してそうじゃないです。私共の心の中に例えば、「世に三宝様踏むな」とこういわれる。三宝様踏むと目がつぶれると、ここでは穀物の意と下に説明がしてありますけれども、三宝様というのはこれは仏教の言葉です。ね、仏、法、僧、と。これを三つの宝と仏教では申しております。それに私は心。だから三宝様ではなくて四宝様という事になるかもしれません。
 仏というのはいうなら、金光教でいうなら神様が大事だよと、同時に教えが大事、法というのは教え、教えがが大切なもんだよと。僧というのはそれを取り次いで下さる先生を、神様と頂けるような大切にしなければいけないよと、お釈迦様は説かれたはずですね。それに心が要るんです。それにね心がいるんです。だから今日はその心を大切にする、心を大切にしなければ、もう知らん間に大事なもの、大切なものを踏みつけて、目がつぶれて、ただ肉眼だけの世界でこの世は苦の世、苦の世界という事になる。
 心の目を開かせて頂くと、もうこの世は極楽の世界。しかも合楽世界、合楽しあえる世界まで進んでいけれ、そこに神も喜び氏子も喜びあえれる世界が顕現されてくるわけです。そこでです私が一番始めに申しました、とにかく愛の灯影のさすどころ、狭いながらも楽しいわが家に先ずならなければならないという事です。それはどういう事かというとね、もう家族中の者がお礼をいいあえれる世界です。拝みあえれる世界です。
 いや家のばばさんば拝もうと思うばってん、家のばばさんばっかりぁとてもとても、あげな「あく」の強いばばさんは拝まれんというふうに、簡単にいうと申しますけれどもね、それが拝めれるのが信心です。信心の心というものがだんだん高められてゆくと、あげな奴は拝めんというのが、むしろ拝めるようになるという事なんです。いわゆる愛の心なんです。自分の好きな者だけは拝める、好きな者だけを愛するというのは、これは本当の愛じぁないです。いうなら人間愛と言うのかも知れません。
 私のいうのは神愛の事です。一切の事柄に御の字をつけるという事は、一切の事柄を拝めるという事。一切のいうならば人が拝めれる。先ず自分の家庭内自分の言うならば近所、隣の人が拝めれる世界。そういういうなら拝めれる世界を広げてゆくという事なんです。合楽ではでいうならば、合楽の信心を一口でいうならです、合楽はもう天の心地の心を説く、言うならば専門学校のようなもんです。他の事は説ん。それをなら甘木あたりでは、口を開けば先生が、天地の大恩を説かれたわけです。
 ある教会ではですそれこそ金光様と心臓でお話が出来るような、これはもう真似は出来んです。そういう心で神様と交流して、人がどんどん助かるという世界もあるわけです。御祈祷をしてもろうて、御祈念力で助かると言った様な信心もあるわけです。まぁだ様々あるでしょうけれども、合楽の場合はどこまでも、天の心地の心をいうならば、自分の心とする生き方。それをねみやすうしかも楽しゅうなるように、説いてあるのが合楽理念なんです。
 しかもそれには、リズムカルな調子が出てくるんです。そしてなら私共の心がです、いよいよ偉大に大きく、いうならばなら滅法界に住まわせて頂ける程しの信心。だからそこを体得してゆく事の為に、信心辛抱もいりぁいうならば、本気でいわば信心の勉強、本気でそれを求めようとするいうなら求道の心というのがいるんです。だからこの頃今村和子先生が申したように、信心が分かるという事は、本気で信心が分かりたいと思うならば、先ず悟りを開く事が先決だというふうに頂いとります。
 おかげは頂かんならんから、こうしてお参りしとる、拝みよるというのではなくてです。心の中に翻然として開けてくるものがあるんです。ここ二、三日、日田のあちらの奥でしょうか山奥の方でしょうか。姿さんという方が青年の方が参って来ます。昨日はお参りをしてみえて、もう夕べは一晩中目を泣き腫らすように、もう泣くまいと思うても涙がこぼれてこぼれて、しようがなかったという。あるいうなら難儀な問題で、合楽におかげを頂いておった。
 ところがたまたま竹葉会かなんかのがあっておる時にお参りして来て、そちらで皆さんの発表を聞かして頂いてる内にです、はぁもうこれじゃったと翻然としたものが開けて来たわけです。それば思うたら晩、眠られん位有り難いげなもん。目を泣き腫らすように、そのなんか結局悟りを開いたという事が、神様が喜びなさったつじぁねと。もう今まで難儀と思うていた事は、露ほどもにも心に感じないというのですから。「悟る」という事が先だという事が分かりますよね。
 では合楽ではどういう事を悟らねばならんかというと、私共が天地の中にね、天地の中にこうして住まわせて頂いておる私ですからね、天地がいよいよ住みよい、この広い天地が住みよい天地にならなければならない。それにはね、私共がねまず天地の心を心としなければならない。例えば家の内でもそうです。主人なら主人の心に添うていかなければ、その家の中はいうならば、住みよい家庭とはいえないと思うです。
 天地の中に住まわせて頂いとる、天地の御恩徳、天地の御恩恵というものが分かってきてね、天地をいよいよ自分の自由無碍な心で、住まう事の出来る世界にする為には、だから天地の心を知る事から、悟る事に変わっていかねばいけないという事です。ね、だから知る事によって行ずる事になります。行ずるところからいうならば、開けて来るものが悟りです。いわゆる実験してみなければいけません。
 そこから実証が生まれて来るんです。そして今まで住みにくかったいうならば、家庭が社会がだんだん住みよい世界が、こんなに有り難い世界を、皆どうしてあんなにそのこの世は、苦の世だ苦の世界と、言った様なそんな表現をするのだろうと、思う程しに有り難い世の中に変わってくるのです。天地の大恩が分かるから、天地の心が分かるから、天地日月の心になる事肝要と仰せられる、そういう信心生活が、生活の上に生き生きとして現れてくるだけ。
 私共はいよいよ、それこそ愛の灯影のさす所、いうならば、天地の親神様の神愛のいうなら何処へ行っても、神様の神愛をここに感じる事が出来る。愛の灯影を感ずる事が出来る、そういう世界に住みたい。そしてそれを広めていきたいというふうに思います。今日は三宝様踏むなと住むところを大分焦点に聞いて頂きました。どうぞ先ず自分の心の中に愛の光がね、自分の家庭にその光が各部屋から部屋に、潤うていくような信心を求めての信心を頂きたいですね。
   どうぞ。